沖縄から、
わたしはアジア地域の小さな島国、沖縄県というところに住んでいる。この島では79年前、“沖縄戦”と呼ばれる大きな地上戦があった。太平洋戦争末期にアジアのキーストーンと呼ばれた沖縄で行われたこの戦争は、住民を巻き込んだ凄惨な戦いとなり、沖縄、日米のみならず世界中から動員されていた多くの人々が命を落とした。
太平洋戦争で日本はアメリカに負け、沖縄は日本本土の“捨て石”となりアメリカ領として米軍統治下の時代を送る。昭和47年(1972年)に日本復帰を果たした現在でも、この島は国土面積の約0.6%しかないにもかかわらず、米軍専用施設面積の約70.3%が集中している。
20歳を過ぎたころから映画制作を始めたが、自分自身が生まれ育った島の歴史(アーカイブ)を探した経験がある映画制作者はわたしだけではないはずだ。映像はキャンバスに一から何かを描くわけではなく、カメラを向けて風景を撮ろうとすると、そこにある“もの”は映ってしまう。また人物であっても、日常の中に当たり前の前提となっている知らない言葉や背景が画面に現れる。と同時に、そこにあるはずのものが映っていない、あってはならないものが映っている、そういった違和感を自分が撮影した映画の画から感じることは良くあることだった。沖縄では観光映画も含め、これまで沖縄戦を題材としたたくさんのドキュメンタリー映画や劇映画が撮られてきたが、実際の沖縄戦を撮影したアーカイブはないのだろうかと疑問に思い探し始めたのも20歳を過ぎたあたりでのことだった。
沖縄戦の映像は、現在は沖縄県公文書館にて誰でも閲覧することができる。広島の「10フィートフィルム運動」にヒントを得て立ち上がった「1フィートフィルム運動の会」(正式には「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」)がアメリカから買い戻した膨大な記録フィルムである。ハリウッドの実力者をも沖縄戦に動員して撮影させたというこの記録映像たちは、沖縄の自然や土地、風俗を記録したもの、艦砲射撃によってガマが焼かれていく様子や、アメリカ兵たちの生活、そして収容所の様子を記録したものなど多岐にわたる。しかし、ここで注視したいのは、これらの映像すべてが“アメリカ側”から撮影されたものであるということだ。
勝者としての“特権”的映像
この1フィートフィルム運動が集めた映像群は、現在に続くまで沖縄戦の唯一の実際のアーカイブ映像として残っている。ここで注意したいのが、これらの映像群がすべて戦争の勝者であるアメリカ側から撮影されたフィルムであることだ。当時日本側は物資が乏しく、本土決戦までの時間稼ぎが沖縄戦であった事実があるように、映像を記録できる余裕はもちろんない。突如戦争が始まり、逃げ惑うことに必死だった沖縄の人々にもカメラをまわすことがいかに困難で想像もつかないことであったかは言うまでもないことである。「敗者は映像を持たない」という大島渚が残した有名なフレーズはまさにこのことだが、結果として沖縄には“沖縄側”から撮影した沖縄戦の映像は全く残らなかった。わたしはこのアメリカ軍が撮影したフィルム群を沖縄の平和教育の一環で幼少期から幾度となく目にしてきたが、映っている映像は当時の沖縄の人々が決して見ることのできなかった風景である。ここに、撮る/撮られる側(見る/見られる側)の圧倒的な視点の違いを感じざるを得ない。
プロテストとしての撮影行為
ミャンマーで起こっている民主化デモに対する抑圧は、当然のことながら日本という離れた場所に住む我々も全く無関係なことではない。プロテストに参加しているたくさんの人々が匿名カメラマン、ディレクターとなって数多くの映像(アニメーション作品も含む)を制作、公開している。この作品たちは長い時間を経ても、ミャンマーで抵抗した人々の、当事者による記録として半永久的に残っていく。もしこれらが撮影、制作されなければ、おそらくニュースに流れる映像であったり、弾圧を進める権力側から撮影された一部の映像しか後の世代に残らないだろう。それはとても恐ろしいことであり、描かれるはずだった出来事、背景、人々の記憶が抹消されてしまうことにも繋がってしまう。また“平和”とされる日本の端っこで生きているわたしのような若者が見れる映像は、さらに狭まった、漂白された断片的なものになってくるだろう。
匿名の「女性」映画制作者たち
“ダイレクターH”と名乗る匿名の「女性」監督は、ミャンマーで起きた軍事クーデター後、数々の作品を制作している。『The Red』(約6分)は軍事情報部に拘束された女性が受けた尋問の記憶や性的虐待をアニメーションで記録した作品だ。また同監督による短編アニメーション映画『救いの手』(約7分)は短いながらも、魅入ってしまう部分がある。この映画は写真や短い動画、そしてアニメーションというさまざまな素材を使って構成されている。わたしは初めてこれらの作品を見た際に、「なぜ実際の映像が少ないのだろう」と疑問を覚えたが、すぐにその疑問が妥当ではないと考えなおした。これらアニメーションの一コマ一コマが実際に起こった出来事を思い出しながら、描き起こされたものであると想像できる。しかし、その行為は簡単に“想像”できる範疇をはるかに超えた、現在もなお続く抑圧やトラウマと向き合い続ける、恐ろしく重たい作業だと言える。
ジュディス・L・ハーマンの著書『心的外傷と回復』では、心的外傷を受けた女性たちがどのように回復していくのかを記述している章がある。『心的外傷と回復』の冒頭部分では、「(前略)回復の基本的諸段階は安全の確立、外傷物語の再構成、そして生存者とそのコミュニティのつながりの取り戻しである。」と書いている。わたしは、この“外傷物語の再構成”という行為に、映画を作るという行為も含まれるのではないかと思えてならない。
みずからの手で歴史を描く
わたしはミャンマーで活動する映像作家たちが、ここまで数多く存在することをあまり知らなかったが、劇場公開された映画であったり、SNSやプラットフォームで目にすることができる作品を知って、これも大きな抵抗の一環を為しているのだと気づいた。映像を撮影するにあたって、現代はスマートフォンはじめ小型のカメラや録音機がたくさんあり、起きた出来事の記録を自分たちの側から残すことが試みられている。現在においてその映像たちがジャーナリズムとして大きな意味を持つことと同じくらい、10年後、20年後、100年後以降の未来においてこの映像群=歴史群は重要な意味を持ってくるだろう。わたしのような、自分自身の歴史をのぞいた時に、そのあまりの映像のなさに絶望する若者は少しは減るはずだ。自分たちの手で歴史を残す=描く=ショットを残すということが、いかに想像しがたい抑圧下で行われているのかを忘れずに、これらの映画作品たちに引き続き向き合っていきたい。
福地リコ(ふくち・りこ)
映画監督、ライター。1993年沖縄県恩納村出身。東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了。沖縄を拠点とし、現在は映像作家・ライターとして活動。「沖縄戦記録1フィートフィルム運動の会」元会長、福地曠昭を祖父に持つ。初監督作品『クリア』(2016)タイディープサウス映画祭及び沖縄県立美術館にて上映。短編映画『BOUNDARIES』(2021)大阪国際アジアン映画祭にて上映。過去の沖縄人が撮影した、個人記録フィルムをモンタージュした短編映画『Childhood’s end』(2022)は京都国際舞台芸術祭2022および那覇文化芸術劇場なはーとにて上映。