top of page

「僕の友達なんです」~ミャンマーの記者支援を始めた訳 北角裕樹



ミャンマーの軍事クーデターから2年が経った2023年2月、ミャンマーのジャーナリストや映像作家を支援する映像サイト「ドキュ・アッタン」を立ち上げた。ドキュメンタリー作家の久保田徹さんらとの共同のプロジェクトだ。今回の記事では、この企画を立ち上げた理由について話したい。


2021年2月、ヤンゴンでクーデターに抗議して座り込む市民ら

7年住んだ街が「戦場」に


 私は2014年からヤンゴンで暮らし、フリーランスの記者として活動していた。民主化と経済発展に沸くミャンマーの取材では書くべきネタは多く、充実した日々を送っていた。友人のジャーナリストらもそうだった。表現の自由が拡大し、若い記者が「自分は貧困問題に取り組みたいんです」と言い、映画監督志望の若者が「俺がミャンマーのハリウッドを作ってみせる」と青臭い理想を語る、熱気にあふれた空気があった。

そんな時代は、軍事クーデターで終わりを告げる。友人のジャーナリストたちは、自分たちの夢を奪われてなるものかと怒り狂い、取材に走った。私もそんなジャーナリストの間でデモや街の動き、ミャンマー人の心情などを取材していった。ヤンゴンでの実弾での弾圧が始まった2月下旬以降、私が第二の故郷としていた街は、しだいに「戦場」と化していった。

そして2月26日デモ取材中に私は一時拘束されてしまうのだが、その翌日のことである。私のことを取材したいと言うので待ち合わせをしていた旧知の女性記者の同僚から電話があった。「大規模なデモ鎮圧があって、彼女は現場に向かった。インタビューは後日とさせてほしい」。そして私はこの日のニュースで、彼女がデモ鎮圧現場でカメラを回していたところを拘束されたことを知った。外国人の私と異なり、彼女は数カ月にわたって投獄された。


 こうして、ジャーナリストの友人たちが次々と苦境に追いやられていった。4月17日、友人の在日ミャンマー人の映像作家が姿を消した。彼の知人から連絡があり、待ち合わせた彼が約束の場所に来ず、連絡が取れないという。ミャンマーの警察は拘束者の名前を発表しない。家族が問い合わせても答えない。つまり、人知れずいなくなってしまうのだ。彼のために弁護士が必要だと思い探していたところ、その翌日に私の自宅が家宅捜索に遭い、私も拘束され一か月間インセイン刑務所に収監されることになる。


 インセイン刑務所でも、多くのジャーナリストやアーティストに会った。映画監督、作家、記者、メディア経営者らだ。彼らは日本人である私のほうが釈放が早いだろうと考えて「私たちの代わりにミャンマーのことを伝えてくれ」と頼んできた。私はそう約束した。


 私が日本に送還されたあとも、友人たちは困難の中にいた。あるビデオジャーナリストはヤンゴンを脱出して身を隠していた。別の記者とは連絡が取れなくなった。またある記者は「追われて引っ越ししなくてはならない」と伝えてきた。友人たちの苦境に比べて、日本に送り返されてしまった私にできることが少ないことが辛かった。


2021年2月、ヤンゴンで抗議デモを取材中の筆者。拘束後にこの映像が現地のメディアに出回った。

久保田さん拘束、友人が立ち上がる


 そんな中で2022年7月、ミャンマーで久保田徹さんが拘束されたという情報が飛び込んできた。初めはSNSで「Toru Kubota」としか流れてこなかったのだが、誰のことだかはすぐに分かった。


 久保田さんの友人たちの動きは速かった。拘束翌日には、ミャンマー人たちが中心となり解放を求めるデモが行われた。久保田さんのドキュメンタリーの仕事仲間である「ドキュミーム」の松井至さんらがそれを取材し、すぐに短編にまとめて発信した。


 そのデモで私もマイクを取った。久保田さんのことを「僕の友達なんです」と説明した。実際のところ、二回りも年が離れている久保田さんにはもっと親しい友達はたくさんいる。私は今回の渡航も知らなかったくらいなのだが、それでも彼がミャンマーで取材をしようという想いは共有していると思っていた。彼の帰国後、それがそんなに間違っていなかったということがわかった。


 彼が拘束されている間ドキュミームの仲間たちと一緒に解放活動をしていたが、私にとっては、拘束されている友人は彼だけではなかった。弾圧に追われ隣国に逃げてきている友人たちもいた。久保田さんの解放を求めながらも、私は「彼も自分だけ助かればいいと思ってはいないのではないか。彼が取材しようとしたミャンマーの現状を知ってほしい」と訴えた。また、彼以外の友人たちのためにも何かできないかという話を始めていた。


 そんな中、秘密のルートで久保田さんからメッセージが届いた。「ミャンマーはいま見えない戦争状態にあります。この国で生きる人々について注目しつづけて欲しいです」と訴えていた。ああ、やはりそう思っていたかと確信した。


 そして3カ月半にも及ぶ拘束のすえ、久保田さんは帰国する。帰国してすぐには、自分の受けた不当な経験を訴えていた久保田さんだが、そのうち「こうした経験をした以上、もう映像を作るだけでなく、支援につながることがしたい」と話すようになってきていた。そこで、私が考えていたミャンマーのジャーリストらを支援するアイデアを持ちかけたのだ。


久保田徹さん拘束の翌日に行われたデモ(2022年7月31日、東京・霞が関)

伝え続けるジャーナリストたち


 2022年末、タイに逃げてきていた友人のジャーナリストらを訪ねた。難民として認められず非正規滞在になっている人が多かったが、それでもこの仕事を続けたい、ミャンマーの現状を伝えなくてはいけないという熱意をぶつけてきた。収入を絶たれたり、タイ警察に一時拘束されたり、トラウマに苦しんだりしながらも、ミャンマー人特有の明るさを失わない人たちだった。


 そうしたミャンマーのジャーナリストや映像作家らとともに、今年2月、ドキュ・アッタンは誕生した。ドキュミームの仲間たちや、かつて一緒に企画をしたキュレーターの居原田遥さん、久保田さんの学生時代の友人らの協力で実現したものだ。中でも久保田さんは「絶対にクーデターから2年になる2月1日に間に合わせましょう」と言い、エンジン役を果たしてくれた。


 現在、9人のミャンマー人作家の11本の作品を掲載している。戦火に追われる難民と一緒に逃げながら撮影した作品や、ラップで軍政に抗議するミュージックビデオ、拷問される壮絶な体験を表現したアニメなど想像以上の力作が集まった。教育や性的少数者に関する作品などテーマの幅も広い。


 ただ、タイだけでも100人を超えるジャーナリストやアーティストらが避難しているとみられ、支援のニーズは多い。ドキュ・アッタンを通じて、もっと多くの友人たちと仕事がしたいと思う。そしていつか、平和なヤンゴンで、彼らともう一度仕事がしたい。



 

北角裕樹(きたずみ・ゆうき)

1975年生まれ。ジャーナリスト/映像作家。ドキュ・アッタン発起人。日本経済新聞記者、大阪市立中学校での民間人校長を経て、2014年にミャンマーに渡る。以後ヤンゴンでジャーナリストとして活動する傍ら、短編コメディ映画「一杯のモヒンガー」を監督。ミャンマーのクーデター以降も残り現場で取材を続けるも、2021年2月と4月の2回にわたり拘束され、フェイクニュースを拡散したという不当な嫌疑でインセイン刑務所に約一か月間収監される。同年5月に解放され、帰国してミャンマーについての情報発信を続けている。



閲覧数:1回

このページをシェアする

Twitterでシェア

Facebookでシェア

LINEでシェア

#DAnote

bottom of page