ミャンマーについてもっと知る
ミャンマーの基本情報
ミャンマーは、東南アジアの西の端に位置し、タイ、中国、ラオス、インド、バングラデシュに囲まれています。面積は約68万平方キロメートルで、日本の2倍弱。約5100万人の人が住んでいます。7割を占めるビルマ族のほか、シャン族やカレン族、カチン族、ラカイン族など公式に認められているだけで135の民族を抱える多民族国家です。仏教徒は9割とされ、そのほかキリスト教徒やイスラム教、ヒンドゥー教などを信仰する人がいます。
クーデター、そして内戦
ミャンマーは、約半世紀の軍事独裁政権を経て、2011年に、民政移管を果たしました。国軍出身のテインセイン氏が大統領に就任しましたが、それでも民主化に向かい大きく舵を切りました。そして2015年の総選挙でアウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が大勝し、軍人の支配は終わりを告げました。市民は「これで国がよくなる」「もう軍人のもとで怖い思いをすることはなくなる」と歓喜しました。
2016年からのスーチー政権下では、依然として力を持ち続けた国軍の影響もあり、必ずしも改革は進まなかったものの、国民の間には自由の雰囲気、発展への希望で溢れていました。「勉強して海外留学したい」「インターネットを使って起業したい」「お金を稼いで自動車が持ちたい」そんな夢を、それぞれ抱いていた時代でした。
その希望は、2021年2月1日、一夜にして崩壊してしまいます。国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧問ら政府高官を拘束しました。これに対し、国民は怒りました。自分たちの夢が奪われたという思いもあったでしょう、Z世代と言われる若者を中心として、多くの人が街に出て抗議の声をあげました。2月下旬には全国で数百万人を数えたともいわれます。
しかし、2月下旬から、国軍の弾圧が本格化します。デモ隊に対して自動小銃の掃射を行ったほか、デモ隊を包囲したうえでの攻撃、バリケードをロケット砲で吹き飛ばすなど容赦のない弾圧が加えられました。証拠のあるなしとは無関係に、怪しいと思われた若者が次々と逮捕されて行きました。
そして、3月から4月にかけ、都市部で抗議活動を行うことができなくなった若者たちは、国境地帯に脱出せざるを得なくなりました。その一部は、「平和的な抗議をしても殺されるだけだ」と考え、国境地帯の少数民族武装勢力のトレーニングを受け、武装蜂起の準備をするようになりました。そして、各地にクーデターに反対する武装勢力「国民防衛隊(PDF)」が組織されて行きます。
そして9月、市民側が組織したもうひとつの政府「国民統一政府(NUG)」は「自衛のための戦い」を宣言、国軍に対するPDFと少数民族武装勢力という構図での内戦が始まります。
そして戦火はチン州やカヤー州、カレン州、ザガイン管区やマグウェ管区など、全土に広がります。PDFのゲリラ攻撃に業を煮やした国軍は、付近の村を焼き打ちにして住民を虐殺するなど、手段を選ばない攻撃に出ています。国連人道問題調整事務所によると、クーデター後から2022年12月までに焼かれた家屋は3万4000軒、新たに避難を余儀なくされた住民は110万人にのぼります。
クーデター発生までの経緯
このように悲惨な結果をもたらしているクーデターですが、国軍はどうしてクーデターを起こそうとしたのでしょうか。首謀者であるミンアウンライン国軍司令官の野心や、スーチー氏との個人的な確執なども指摘されていますが、重要な点は、ミャンマーでは国軍が歴史的に政治を牛耳ってきたため、スーチー氏の主張する「軍は国防だけが役割」として政治から軍部を排除しようとする流れを受け入れがたかったことが挙げられます。
国軍系の国会議員はもとより、各省庁では国軍の天下りが幹部を占め、各分野の行政に大きな影響を与えていました。また、国軍は兵士の福利厚生を理由として、石油、鉱山、ビール、通信、銀行、テレビ局などの数々の企業グループを事実上経営していました。NLD政権のもとでこうした利権が脅かされるという危機感を持っていたと指摘されています。
また、国軍が主導した2008年憲法では、クーデターが事実上許容されているという問題点もあります。この憲法では、大統領が非常事態を宣言すれば、国軍司令官に三権が移譲されることになっていました。実際に2021年2月には、大統領を拘束の上、国軍系の副大統領が非常事態を宣言する流れになりました。この憲法はまた、国軍の高い独立性が規定され、警察を傘下に置く内務大臣ら3閣僚に加え、国会議員の25%の議席を国軍側が指名できるという国軍に有意な仕組みとなっており、NLD政権が改正を模索していました。
ミャンマーではこれまでも、1962年にネウィン将軍がクーデターで政権につき、1988年の民主化運動後にはクーデターで再び軍が政権を握るなど、たびたびクーデターが起きています。また、1947年の独立直後から少数民族武装勢力などとの内戦が続いているほか、2017年のロヒンギャ危機では、国軍が大規模な掃討作戦を行い、イスラム系民族ロヒンギャを中心として70万人もの難民を生み出しました。現在国軍が行っている焼き打ちなどの残虐行為も、こうした内戦の中で繰り返されてきたことなのです。
ミャンマーと日本
ミャンマー(ビルマ)と日本とは、歴史的に深いつながりがあります。ミャンマー独立の英雄であるアウンサン将軍はアウンサンスーチー氏の父親ですが、旧日本軍の軍事訓練を受けています。
英国からの独立運動を進めていたアウンサンら独立運動家に対し、諜報機関の南機関の鈴木敬司大佐らが海南島でトレーニングを施し、ビルマ独立義勇軍を結成させます。そして、1941年に日本が太平洋戦争の開戦に踏み切ると、直後にビルマに侵攻。ビルマ独立義勇軍とともにラングーンを制圧します。
その後日本はビルマ国を打ち立てますが、それはアウンサンらビルマ側にすれば、独立とは名ばかりの傀儡政権に映りました。そして、旧日本軍が補給を無視したインパール作戦で大敗を喫するなどすると、アウンサンらは日本に反旗を翻します。第二次世界大戦後、ミャンマーは1948年に独立を果たしますが、アウンサンはその前年に暗殺されてしまい、その日を見ることはできませんでした。
独立後もミャンマーは、日本との縁があります。戦後の米不足の時期に、ビルマから輸入された米を食べた記憶のある人が、一定の年代層には少なくありません。ビルマは日本との賠償交渉をいち早くまとめ、日本の技術でバルーチャン水力発電所などが建設されたほか、松下電器産業(現パナソニック)や日野自動車が工場を建設しています。ミャンマーの軍事政権の人権侵害を米国が問題視し経済制裁を科した中でも、日本の国際協力機構(JICA)はヤンゴンに事務所を置き続けていました。
2011年の民政移管でテインセイン政権が誕生すると、ミャンマーは日本企業の「ラストフロンティア」として、俄然注目を集めることになります。クーデター前には400社以上がミャンマーでビジネスを展開していました。自動車のトヨタや、カメラのキヤノンなどは、圧倒的なブランド力を持つ日本企業も少なくありません。
また、日本政府はミャンマーに対して過去の借金を棒引きにしたうえで、政府開発援助(ODA)を本格再開。2016年には、来日したアウンサンスーチー国家顧問兼外相に対して、官民で8000億円の支援を約束しています。日本の公的資金は鉄道整備、電力、医療、法整備支援、工業団地整備など多岐にわたる分野に投じられています。
クーデターが発生後、複数回にわたって暴力の即時停止、アウンサンスーチー氏ら拘束者の解放、民主的体制の早期回復を求めてきました。2021年6月には、衆参両院でクーデターを非難する決議が可決されています。
その一方で、日本政府は新規のODA案件を見送る一方で、既存案件については現在もプロジェクトを止めていません。また、防衛省がミャンマー国軍の士官や士官候補生を受け入れ、防衛大学校や自衛隊で軍事訓練を施していることについて、大きな批判があがっています。ミャンマー人からは「国軍への支援を止めて」「日本政府は正義の側に立ってほしい」との声があがっています。
2021年末の統計では、日本に住むミャンマー人は約3万7000人を数えています。留学生のほか、日本人が避けたがる人手不足の介護や漁業、飲食店などの仕事に従事している人も少なくありません。こうした在日ミャンマー人たちは、クーデターから2年が経つ今でも、弾圧や内戦の被害者のため、毎週末いくつもの団体が駅前などで街頭募金活動をしています。